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明治から平成を彩る 一目30億円のチューリップ 文・写真 新潟県立植物園 倉重祐二 明治から平成を彩る 一目30億円のチューリップ 文・写真 新潟県立植物園 倉重祐二

2016/09/15

花に興味がなくても、知らない人はいないチューリップ。園芸通信の読者の皆さんはチューリップがユリ科の球根植物であることはご存じだと思います。ランやユリと同じく、6枚の花弁のうち、外側の3枚はガクが花弁に変化したものです。赤や黄色、ピンク、白色などの明るく優しい色の花として、長く人々に愛されてきました。

「チューリップ」の歌が唱歌として発表されたのは昭和7年のこと。新潟県では昭和8年に新潟農園が開園し、チューリップ畑を見に多くの人が訪れました。この時代にはチューリップはまだ珍しい西洋の花でした。

ここではチューリップが歩んだ歴史をたどっていくことにしましょう。何の変哲もない見慣れた花がまた違った目で見られるかもしれません。

  • 江戸時代から明治時代は栽培困難だった球根植物
  • 商業生産に成功した大正時代
  • 球根の輸出で外貨を稼ぐようになった昭和時代
  • 平成時代を迎えたチューリップの未来
  • ぜいたくなチューリップの楽しみ

江戸時代から明治時代は栽培困難だった球根植物江戸時代から明治時代は栽培困難だった球根植物

原産地と日本の気候の違いから、毎年輸入する高価なチューリップ時代

日本へのチューリップの渡来は、江戸時代も末の1863年、幕府の遣欧使節がフランスから持ち帰った球根が最初とされます。翌年に開花した図が残されていますが、幕府の洋学研究所である蕃書調所(ばんしょしらべしょ)で栽培されていたため、一般の人の目に触れることはありませんでした。

岩崎灌園の「本草図譜」(1830~1844年)に描かれたチューリップ。江戸時代にはチューリップはまだ渡来していなかったため、オランダのウェインマンが著した「花譜」(1748年頃)の図を写したとされる【国立国会図書館所蔵】

岩崎灌園の「本草図譜」(1830~1844年)に描かれたチューリップ。江戸時代にはチューリップはまだ渡来していなかったため、オランダのウェインマンが著した「花譜」(1748年ごろ)の図を写したとされる【国立国会図書館所蔵】

明治30年代になると西洋植物の栽培が流行し、明治40年代までに現在栽培される植物のほとんどが輸入されました。当時は、鉢花や苗木、球根などを販売するような店はほとんどありませんでしたので、これらはカタログを使った通信販売が行われていました。
チューリップも明治30年代には販売され始め、ブームに乗ってヒヤシンスなどの西洋の球根植物とともに人気を博しましたが、国内ではうまく栽培できなかったため、毎年球根が輸入されていました。

明治期に出版された種苗商の通信販売カタログ。左は東京三田育種場(明治34年発行)、右は日本種苗株式会社(明治41年発行)【倉重祐二所蔵】

明治期に出版された種苗商の通信販売カタログ。左は東京三田育種場(明治34年発行)、右は日本種苗株式会社(明治41年発行)【倉重祐二所蔵】

当時はうまく栽培できなかった理由は判然としなかったようですが、これはチューリップの原産地であるヨーロッパ東部や小アジア(アナトリア半島)の冬が湿潤で、夏は乾燥して涼しい気候と、日本の太平洋側や西日本の気候がまったく違っていたためでした。

前年夏に花芽ができているので春には咲くのですが、その後は球根が太りにくく、ウイルス病などにかかることが多かったため、枯れてしまったり翌年咲かなかったりすることが多かったようです。

日本園芸会雑誌に掲載されたチューリップ(明治38年)。当時は栽培が難しい植物と考えられていた【倉重祐二所蔵】

日本園芸会雑誌に掲載されたチューリップ(明治38年)。当時は栽培が難しい植物と考えられていた【倉重祐二所蔵】

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商業生産に成功した大正時代

生産に成功するも、花壇になれば一目30億円もする夢のチューリップ

チューリップの球根は輸入に頼っていたため、大正時代の球根の価格は、現在の価値で1球2,000~3,000円と非常に高価なものでした。1,000球程度の小さな花壇を作るのに300万円、富山県砺波市の「となみチューリップフェア」の100万球規模の花壇となれば、なんと30億円近い金額となります。日本で生産が軌道に乗った大正時代のチューリップ畑は、西洋の珍しい花が咲く特別な場所であり、限られた期間だけに現れる夢の風景だったのです。

このチューリップの球根生産に目を付けたのが新潟市の花き農家の小田喜平太(おだきへいた)でした。近隣では明治時代からチューリップが小規模ながらも生産されており、小田氏も大正7年に1アールの面積でチューリップの試験的な栽培を始めていました。

小田喜平太(1878~1946)は日本初のチューリップ球根の本格的な商業生産に成功した【新潟県立植物園所蔵】

小田喜平太(1878~1946)は日本初のチューリップ球根の本格的な商業生産に成功した【新潟県立植物園所蔵】

ここで登場するのが、もう一人のチューリップ栽培の立役者、中蒲原郡の技手であった小山重(こやましげ)です。小山氏は、千葉県立高等園芸学校(後の千葉大学園芸学部)で学び、新潟がチューリップ栽培の適地であると考え、将来有望であると小田氏を説得しました。
そして、小田氏は商業生産を決意し、大正9年にオランダから数万球の球根を輸入して、その年の秋に植え付けました。これが本邦におけるチューリップ球根の本格的な商業生産の始まりです。

チューリップ畑が表紙になった小田氏の経営する小梅園の通信販売カタログ(昭和6年)【新潟県立植物園所蔵】

チューリップ畑が表紙になった小田氏の経営する小田小梅園の通信販売カタログ(昭和6年)【新潟県立植物園所蔵】

新潟では植え付けた球根から根が伸びる秋に雨が多くなり、また光合成によって球根に養分を蓄える春から初夏にかけては晴天率が高く、比較的気温も低いため葉の生育期間が長く、両氏の考えた通り、チューリップ球根栽培の適地だったのです。

しかし、生産には親球を輸入するための多額の投資が必要でしたし、うまく作れるのか、売れるのか売れないのか分からないチューリップの球根生産を始めようとする農家はほとんど現れませんでした。この状況が変わったのが、大正10年に新津町で行われた千葉県立園芸高等学校の林脩己講師の行ったチューリップ生産の講演でした。この中で新潟は生産適地であることや、水稲に比べて25倍以上の利益が期待できることが説明され、農家にとって球根生産は非常に魅力的で現実的な話となったのです。これを契機として、町内から始まった生産は新潟県全域へと広がっていきます。

太田政弘知事を迎えた小田氏のチューリップ畑。チューリップ球根の商業生産が開始された初期の大正12年4月撮影【新潟県立植物園所蔵】

太田政弘知事を迎えた小田氏のチューリップ畑。チューリップ球根の商業生産が開始された初期の大正12年4月撮影【新潟県立植物園所蔵】

通信販売の元祖は種苗だった

サカタのタネは、昭和2年に国内向けカタログ「園の泉」で植物を販売していますが、ちょっと不思議な感じがしないでしょうか。実は、そもそも日本の通信販売は種苗から始まったという歴史があるのです。

日本で通信販売が始まったのは明治9年。農学者で、津田塾大学の創立者津田梅子の父である津田仙によって、種苗が販売されたのが最初とされます。
津田氏は幕府の外国奉行の通訳として、江戸時代末にアメリカへ派遣され、そこで農家の実情を視察、通信販売によってどこにいても品質のよい苗やタネ、農機具などが入手できる仕組みがあることを知ります。帰国後の明治8年に学農社を興し、翌年から『園芸世界』を発行して、苗木などの販売を開始します。

その後、鉄道網や郵便制度の整備によって、日本各地でカタログが発行され、優良な苗や珍しい植物が容易にどこででも入手できるようになりました。明治から大正は草花を売る専門的な小売店はほとんどなく、植物や種子は通信販売カタログで購入するのが普通でした。植物の専門家でもあった宮沢賢治も通信販売で植物を購入しています。

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球根の輸出で外貨を稼ぐようになった昭和時代球根の輸出で外貨を稼ぐようになった昭和時代

輸出用だけでなく、切り花用、観光用としても着目され始める

新潟でのチューリップ球根の生産は順調に拡大し、大正10年には小合村園芸組合が設立され、小合村にチューリップ10万球が輸入され、同12年には小田氏が15万球を購入するなど、徐々に規模を大きくしていきました。11年には中蒲原郡花卉球根組合が発足し、小合村から郡内へと生産地が広がっていきました。

大正14年には7.08ヘクタールであった県内の栽培面積は、翌年には13.32ヘクタールと倍増するなど、新潟県はチューリップ球根の大産地としての道を進み始めたのでした。こうした中、球根の生産は富山県や京都府などを中心として他県にも拡大していきます。

一方、新潟県は外貨獲得のための輸出花きとしてチューリップを有望視し、球根生産に対して大正14年から助成金を交付しました。昭和10年にはアメリカと中国への輸出に成功したことで、海外市場への出荷の足がかりが築かれました。増加する輸出球根と品質の管理に対応するために昭和13年には新潟県花卉球根輸出協会が発足しています。

しかし、戦争の影響で、翌年にはアメリカの対日資産凍結で輸出が不可能となり、昭和18年の不急作物作付統制令により輸出はもとより、球根生産も大幅に制限され、緒に就いたばかりの球根輸出は頓挫の憂き目に遭ったのでした。

戦前に輸出されるチューリップ球根。輸出元の三菱商事の木箱の前で。左から4番目が小田氏、5番目が小山氏【新潟県立植物園所蔵】

戦前に輸出されるチューリップ球根。輸出元の三菱商事の木箱の前で。左から4番目が小田氏、5番目が小山氏【新潟県立植物園所蔵】

戦後は、弱体化した日本経済を立て直すために外貨の獲得が至上命題となり、昭和23年には新潟県及び富山県からチューリップ球根の輸出が再開されています。

しかし、昭和も30年代になると、日本の経済成長によって球根輸出での利益が上がりにくくなり、昭和40年ごろをピークに輸出は徐々に減少します。富山県は現在まで輸出が続いていますが、新潟県においては昭和51年を最後に皆無となっています。

昭和初期には生産者から直接小売もされており、カラー印刷された紙を貼り付けた高級な紙袋が使われていた【倉重祐二所蔵】

昭和初期には生産者から直接小売りもされており、カラー印刷された紙を貼り付けた高級な紙袋が使われていた【倉重祐二所蔵】

輸出ができなくなったときに余った球根をどうするのか? 戦時中は食べたという話を聞きましたが、それを解決したのが、球根を育てて花を咲かせ、切り花として出荷しようという発想の転換でした。この結果、新潟県は平成4年からチューリップの切り花出荷量が全国1位となっています。

切り花の出荷(昭和初期、小林平和園)【新潟県立植物園所蔵】

切り花の出荷(昭和初期、小林平和園)【新潟県立植物園所蔵】

また、生産以外にもチューリップは観光資源としても重要な役割を果たしてきました。球根を生産、国内外に販売することを目的として昭和7年に設立された新潟農園は、チューリップを中心とした大面積の花壇を併設し「東洋一の花園」と呼ばれ、観光施設としても成功を収めました。現在でも富山県砺波市の「となみチューリップフェア」には多数の来場者がある季節の大イベントとして定着しています。こうしてチューリップは新潟県だけではなく全国で愛される花として普及し、新潟県と富山県の花にも制定されています。

チューリップの開花時期がゴールデンウィークとも重なって、30万人もの人が訪れる「となみチューリップフェア」

チューリップの開花時期がゴールデンウイークとも重なって、30万人もの人が訪れる「となみチューリップフェア」

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平成時代を迎えたチューリップの未来平成時代を迎えたチューリップの未来

日本産チューリップの価値の創造

チューリップの球根は、現在約3億球が国内に流通し、そのうち約4,000万球が新潟県、5,000万球が富山県で生産されていますが、2億球はオランダからの輸入です。これは昭和末から球根の輸入に必要な病害虫を防ぐための隔離栽培がオランダ産の球根に限って免除されたためです。

オランダ産の球根は、日本産よりも安価で、多数の品種があることから、現在でも量販店で売られ、また農家で花を咲かせて切り花として出荷されています。花を切った球根は廃棄され、毎年オランダから輸入しているので、もったいないような気がしますが、栽培するよりも輸入球を買った方が安いのです。これが現在のチューリップ栽培の実情です。

一方、日本でも新しいチューリップを作り出すために、古くから品種改良が行われています。富山県では、産地の育ての親といわれる水野豊造によって戦前から育種が行われ、昭和27年に新品種が発表されています。その後も昭和40年代から新品種が発表され、育成品種は40品種以上あります。

新潟県においては昭和38年に園芸試験場から数品種が、また新潟大学名誉教授の萩屋薫によって昭和63年からメルヘンシリーズや星シリーズなどの数多くの品種が発表されました。また昭和60年代から品種改良が再開され、花色がほぼ白色からだんだんとピンクに花色が変化するなどの14品種が発表されています。

花色が白から紅色に変化する新潟県作出「桜小雪」

花色が白色から紅色に変化する新潟県作出「桜小雪」

さて、時代によってめまぐるしく変化したチューリップ生産ですが、将来の日本のチューリップ生産はどうなるのでしょうか。国内産の高い品質はもちろん、香りや花形、花色などにこれまでにないような特徴を持つ新品種の開発や、現代に適した観光資源としての利用などがこれからの発展の鍵になると考えられます。

香りもあり、花形も人気のユリ咲き「バレリーナ」【新潟県立植物園所蔵】

香りもあり、花形も人気のユリ咲き「バレリーナ」【新潟県立植物園所蔵】

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ぜいたくなチューリップの楽しみぜいたくなチューリップの楽しみ

花持ち抜群! 真冬にチューリップ

さて、これまで歴史を解説してきましたが、チューリップ栽培の魅力についても述べていきたいと思います。

皆さんはチューリップというと、ピンクや赤で同じような花形でと想像されるかもしれませんが、長い歴史の中で国際的には5,000以上の品種が登録され、日本でも数百種類が販売されています。現在では、多様な品種と栽培技術の組み合わせで、実に多彩な楽しみ方ができることをご存じでしょうか。

花形では、花弁の先が細長く伸びるユリ咲き、花弁の縁がギザギザになる一風変わったフリンジ咲き、また、パロット咲きといわれるオウムの羽のような花形など一見するとこれがチューリップ? と思える品種が多数あります。

また、八重咲きで紫色の「ブルーベリーアイス」や、覆輪の「ダブルダッチ」などは花が開くとボリュームがあり、ふくよかで豪華な花は上から見てもとてもきれいです。

アイスクリームのような形がユニークな上に珍しいブルーの八重咲き「ブルーベリーアイス」

コーンに入ったアイスクリームのような形がユニークな上に珍しいブルーの八重咲き「ブルーベリーアイス」

花色は春らしく全体に明るい色調で、庭がパッと明るくなるものが多いのも特徴です。紅白2色バイカラーのユリ咲き「マリリン」や、白地にくっきりとした紫や赤色が入る高貴な雰囲気のレンブラント咲きの「カーナバルデリオ」や「レムズ フェイバリット」もおすすめです。鉢植えに適したミニチューリップや、香りのよい「サンネ」なども人気が高い種類です。

香りのないチューリップが多い中で、素晴らしい香りを放つ「サンネ」

香りのないチューリップが多い中で、素晴らしい香りを放つ「サンネ」

開花期も春だけではなく、栽培技術の進歩によって年末から1月に咲くアイスチューリップや、2~3月に開花するアーリースマイル(R)チューリップなどが販売されています。少し割高なような気がしますが、気温が低い時期に咲くので、1カ月ほどの長期間花が楽しめ、実際はお得な楽しみ方です。

まだ庭には草が生えてこない時期、ひと足早く春を告げるアイスチューリップ

まだ庭には草が生えてこない時期、一足早く春を告げるアイスチューリップ

さまざまな花形や花色、開花期のチューリップ。長い歴史の末に生まれてきた現代の品種を育てることは、考えてみれば実にぜいたくなことではないでしょうか。見慣れた花も来年は多少違った目で楽しむことができるかもしれませんね。

沖縄では咲かないチューリップ

夏前に掘り上げたチューリップの球根は、外見には変化はないのですが、内部では、来年に咲く花芽ができ始めます。秋に植え付けると、冬に花芽が寒さに当たり、その後に春の暖かい気候で花茎を伸ばして花を咲かせます。このため、寒さが十分でない沖縄では、普通に栽培してもチューリップは咲きません。

サカタのタネで販売されているアーリースマイル(R)チューリップの球根は、球根の状態で冷蔵処理をしていますので、沖縄でも春には確実に開花します。さらに今回紹介したアイスチューリップは、球根を鉢に植えて、ある程度生育させてから強制的に寒さに当てる特別な技術で栽培されているため、通常よりも早く、冬の寒い時期に開花します。

アーリースマイル(R)チューリップも低温期に開花するので、花持ちが抜群(3月中旬撮影)

アーリースマイル(R)チューリップも低温期に開花するので、花持ちが抜群(3月中旬撮影)

著者紹介

倉重祐二(くらしげ・ゆうじ)

倉重祐二(くらしげ・ゆうじ)

新潟県立植物園副園長。専門はツツジ属の栽培保全や系統進化、園芸文化史。著書に『よくわかる栽培12か月 シャクナゲ』『よくわかる栽培12か月 モクレン、コブシの仲間』『よくわかる土・肥料・鉢』(以上NHK出版)、『増補原色日本産ツツジ・シャクナゲ大図譜』 (誠文堂新光社)、『日本の植物園』(八坂書房)など。

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