今まで日本の亜熱帯気候は、奄美大島以南といわれてきました。ところが、昨今の夏、私たちの体感では、日本列島全体が温帯とは思えない日々です。
ここは北緯約28度、奄美大島の森です。1年中温暖で湿度が高く、年間降水量は東京の倍ほどあります。およそ100万年前に大陸から分かれたこの島は、独自の生態系を育てました。この島には人も住んでいますが、その山地は開発が困難なこと、そして、ハブが生息しているので、森に人があまり入らなかったのです。そのため、ほとんど手つかずの森が残されました。
そんな森にも人が切り開いた林道があります。原始の森は、木々が生い茂るために暗く、植物相は少ない気がします。大木が倒れたり、人為的に切り開いたりすると周囲に日の当たる空間ができ、植生が豊かになります。周りの林床より、こうした道端などの方がさまざまな植物を見られます。
ツルラン
そんな林道には、いろいろな地生ランの葉が見られました。ツルランCalanthe triplicata(カランセ トリプリカタ)ラン科エビネ属。ここでは、写真のツルランの他にもカクチョウラン、トクサランなどが判別されました。
地生ランは極相林ではなく、比較的新しく作られた遷移的環境(ギャップ)が好きなのだろうと感じます。ラン科植物は、その特徴的な花が美しく、面白いのですが、花だけでなく、美しい葉を特徴とする種類があります。
道端の隅にこんなランを見つけました。それは「宝石ラン(Jewel Orchid)」と呼ばれる一種、ラン科シュスラン属です。ピカピカの表面に、繊細な金糸や銀糸のような葉脈が「籠目模様」になる、美しいアジアのランです。この通り、葉の模様が、着物にも使われる絹織物の「繻子織(しゅすおり)」に似ていることが、シュスラン属の語源です。
カゴメラン
カゴメランGoodyera hachijoensis var. matsumurana(グッディエラ ハチジョウエンシス変種 マツムラナ)ラン科シュスラン属。属名のGoodyeraは、タイヤメーカーのGoodyearとは何の関係もありません。17世紀イギリスの植物学者John Goodyer(ジョン・グッディア、1592~1664年)に献名されました。その時代、グッディアは高く評価された人でした。後の時代の植物学者が、彼の業績のため、このランの属名にその名を記念したのでした。
種形容語のhachijoensisは、日本の八丈島を意味します。変種名のmatsumuranaは、幕末に生まれ、日本に近代植物学の基礎を築いたとされる、松村任三(まつむら じんぞう、1856~1928年)の業績にちなんで命名されたものです。
カゴメランは、東アジアの温暖な地域、中国南部から台湾、壱岐島(いきのしま)を経て、鹿児島、そして、南西諸島に分布しています。その事実は、カゴメランが大陸で発生し、それらが陸続きであった過去を想像させてくれます。湿った原生林の林床に生えるカゴメラン。昔ながらの森が少なくなり、カゴメランを希少な植物の一つにしています。
それにしても、なぜカゴメランはこのような光り輝く葉を持っているのでしょうか?カゴメランが生えていたのは、ほの暗い場所です。木々の間から入る、弱い太陽光線を効率よく取り込む工夫が、葉の文様に隠されているのだと思います。そして、ツヤツヤの厚いクチクラ層(ろう質の膜)が葉の表面に施され、カゴメランを乾燥から守っているのでしょう。
宝石ラン(Jewel Orchid)という名前は植物名でなく、光り輝く美しい葉を持つランに付けられた通称名です。1818年にこのJewel Orchidはシュスラン属のGoodyera discolor(グッディエラ ディスカラー)として、初めて学名が付けられました。その後、他属への分類を経て、1属1種の単属種となり学名が変更されました。
ホンコンシュスラン
ホンコンシュスランLudisia discolor(ルディシア ディスカラー)ラン科ルディシア属。属名のLudisiaの意味は不明です。種形容語のdiscolorとは、ラテン語の「dis(離れて、否定)」+「color(色)」の合成語で、色が異なることを意味しています。それは、この植物の葉がバーガンディーの基本色を持ちピンクの異なったストライプカラーを持っていることを表します。
この植物は、「ホンコンシュスラン」という和名が付いていますが、直接、香港に関係するわけではなさそうです。原生地は、中国南東部とラオス、ベトナム、タイなど東南アジアの常緑樹の林床(りんしょう)です。その風情は、どこかツユクサのようであり、直立した花序(かじょ)からランらしくない小さな白い花を咲かせます。成長は遅いのですが、気むずかしいところがなく、コチョウラン(胡蝶蘭)を育てられる方なら容易に栽培でき、室内で楽しめる宝石ランだと思います。
ベニシュスラン
シュスラン属の全てが、宝石ランと呼ばれるかというと、そう単純なものではありません。例えば、上の写真の植物は、他のシュスラン属のように葉に独特の模様がありますが、光沢が少なく、灰をかぶったような暗い緑色をしています。ベニシュスランGoodyera biflora(グッディエラ ビフロラ)ラン科シュスラン属。種形容語のbifloraとは、ラテン語の「bi(二つ)」+「flora(花)」の合成語で、ベニシュスランが「一つの花茎に二つの花を咲かせること」を意味しています。
ベニシュスランは、東アジアに固有のランで、日本の本州から九州の湿った常緑樹林の林床などに原生します。北海道の一部にも原生があると聞きますが、確認は取れていません。国外では、韓国の南西にある済州島(チェジュド)と全羅南道(チョルラナムド)に分布しています。
ベニシュスランは、シュスラン属の中でも異例の種です。他のシュスランは、花が白色で1cm未満の大きさですが、ベニシュスランの花は約3cmに及び、比較的大型です。形もラン科独特の唇弁が小さく、外花被(がく片)3枚で筒状花を作ります。ベニシュスランは、訪花昆虫の中から長い口吻(こうふん、口先)をもつ花蜂のトラマルハナバチにターゲットを絞り、その昆虫に最適化した花被を作りました。ベニシュスランも、前回紹介した送粉シンドローム(Pollination Syndrome)の一例を示す植物です。
昼もなお暗い、森陰でひっそりと暮らすシュスラン属と近縁種たち。ぼーっと山道を歩いているだけでは、その存在に気が付かないかもしれません。光り輝く美しい葉、そして、奇妙な花には、その地で暮らす植物の工夫が詰まっていたのでした。
次回、「カワミドリ」と名前の付く植物のお話です。お楽しみに。