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連載

玄奘と西域の花 タチアオイ

小杉 波留夫

こすぎ はるお

サカタのタネ花統括部において、虹色スミレ、よく咲くスミレ、サンパチェンスなどの市場開発を行い、変化する消費者ニーズに適合した花のビジネスを展開。2015年1月の定年退職後も嘱託として勤務しながら、花とガーデニングの普及に努めている。
趣味は自宅でのガーデニングで、自ら交配したクリスマスローズやフォーチュンベゴニアなどを見学しに、シーズン中は多くの方がその庭へ足を運ぶほど。

玄奘と西域の花 タチアオイ

2016/08/16

広まり始めた仏教の本当の教えを知りたい思った人が、少林寺の僧たちだけでなく、たくさんいたのだと思います。27歳の玄奘(げんじょう)もその一人でした。国内の偉いお坊さんの話に満足しなかった玄奘は、仏教の生まれた天竺(てんじく)の原典にそれを求めたのでした。唐の時代、出国は国禁でした。知恵のある玄奘は、法に触れることがどのようなことか分かっていましたが、自らの意思、志がそれに勝ったのです。天竺まで往復3万kmの旅。それは今の私たちには想像ができないほどの大冒険でした。

玄奘は、4人兄弟の末っ子、小さな頃から利口な子で、若くして出家を許された才人です。姓は陳といいました。洛陽から程近い村の生まれで、この村ではほとんどの人が陳の姓を名乗ります。玄奘といえば日本では三蔵法師として知られていますが、経(釈迦の教え)、律(戒律)、論(理論)を修めたお坊さんの称号です。玄奘だけを指す固有名詞ではありません。

玄奘は洛陽の城門からインドまで直線距離をとることができませんでした。それは人を寄せつけないうっそうとした熱帯のジャングルを抜けること。そして、天にまでそびえ立つヒマラヤを越えることができないからです。唐の時代は、西域との貿易が盛んにされた時代です。玄奘は西の商人たちと中央アジアに渡る西域の道、シルクロードを通り、インドに迂回する道を歩みました。洛陽から天竺まで片道3年、インドにおいても各地を巡り、賢者に師事し、仏法を学んだのです。

遣隋使や遣唐使が歩いた古い街道の畔に、玄奘由来の寺があります。その名も玄奘寺。なんだか後から取って付けたような名前です。そこには、古くは中国が原生地と思われていたタチアオイが咲いています。

タチアオイAlthaea rosea(アルセア ロゼア)アオイ科アルセア属。種形容語のroseaはバラを意味します。タネをまいたその年に開花する品種もありますが、基本的には春にタネをまくと次の初夏に開花する二年草です。草丈も高く、どこにあってもよく目立つ草花ですが、タネをまく習慣が少なくなった日本の昨今では、昔より目にしなくなったと思います。日本ではハマキムシの食害が多いのですが、乾燥地帯している大陸では、虫の害は少ないようです。

このタチアオイ、日本では平安時代に渡来したとされる園芸植物です。古くは、中国が原生地と思われましたが、その中国では原生地は西域とされます。西域とは中華の枠を超えた西の世界です。実はこの植物の自生地が見つかっていません。日本においてアルセア属の資料を調べると、近縁の種がイスラエルやレバノンのワイルドフラワーとして記述が見つかります。この属は中東、地中海、中央アジアなどに分布する植物属となっています。そして、このタチアオイはこの地域に自生する野生種の雑種ではないかとされています。

タチアオイは来歴に謎を秘めます。古い、古い昔、誰かが交配をして雑種を作り、園芸種にしたのでしょうか。いずれにせよ玄奘の時代、この植物はシルクロードを渡り、中国に伝播し、遣唐使などが日本に持ち帰ったのだと思います。どこか異国の香を漂わせるこの植物は西域の花、シルクロードの花だと思います。

洛陽から玄奘の故郷を通り、海岸部へ続くいにしえの街道です。今では車で通りますが、玄奘もこの道を歩きました。タチアオイもまた、この道を通り、平安時代の日本にたどり着きました。玄奘は、求法(ぐほう)の旅を17年で終えました。大唐西域記という報告書を太宗に提出し、鎖国を破った罪は許されたのです。その後は持ち帰った原典を訳すことに生涯をかけ、膨大な経典郡の3分の1を訳し、生涯を終えたと記述されています。

次週は、夏でも涼しい3000mを越える高山に生える、高嶺のお皿百合 ノモカリスのお話です。お楽しみに。

JADMA

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