小杉 波留夫
こすぎ はるお
サカタのタネ花統括部において、虹色スミレ、よく咲くスミレ、サンパチェンスなどの市場開発を行い、変化する消費者ニーズに適合した花のビジネスを展開。2015年1月の定年退職後もアドバイザーとして勤務しながら、花とガーデニングの普及に努めている。
趣味は自宅でのガーデニングで、自ら交配したクリスマスローズやフォーチュンベゴニアなどを見学しに、シーズン中は多くの方がその庭へ足を運ぶほど。
遥かなるプリムラの旅路[その5] プリムラ属
2017/01/31
女川町は宮城県牡鹿半島(おしかはんとう)の付け根にあります。人通りの少ない夕暮れや朝方に周辺の山地を散策すると、そのたびにニホンジカと目を合わすことになります。きょとんとしたつぶらな瞳のシカですが、突然出くわすと驚きます。何しろ名前が牡鹿半島ですから、シカが特別に多いのは仕方ありません。このシカのせいで半島の植生はとても奇妙なのです。普段は分散して生えている毒草、テンナンショウ属(Arisaema属)の植物が群落を成し、にょきにょきと生える異様な景観を見ることができます。
ミミガタテンナンショウArisaema limbatumサトイモ科アリサエマ属は、東北から四国にかけて山地の林縁などに自生する植物です。ニホンジカは1日に3kgの好きな植物を食べるといいます。この半島のシカ人口は数千頭と想定されているので、半島全体で1日に10tを超える植物が食べられる計算です。シカは起床時間のほとんどを使って草を食べるので、その食圧力は地域の植生を変えていきます。この奇妙な植生は、シカの好きな植物が食べ尽くされ、食べない毒草が地の利を得た結果です。この地域では同属のウラシマソウArisaema thunbergiiも同様に群生します。
クリンソウの群落があった、栃木県奥日光の千手ヶ浜地域も特にニホンジカの密度が高く、シカが食べる草はきれいに除草され、食べない草が優先するような植生になっています。この地域の優先下草であったミヤコザサSasa nipponicaなどはすっかり食べ尽くされ、シカの食べない植物が寡占する状況が作られていました。やや乾燥した夏の林床にはシロヨメナAster ageratoides、毒草のイケマCynanchum caudatumが咲き、少し湿った場所にはマルバダケブキLigularia dentataの群生があります。
そしてプリムラ属もまたシカの好みに合いません。千手ヶ浜における多様性の乏しい景色はシカの採食圧力が作ったものでした。このクリンソウの色合いは近くの土産屋や別荘地に植えられた園芸種のクリンソウが、シカの行動によって広がったと推定されます。夜行性のシカは人の住む場所にも餌を求めて出没したのでしょう。花壇をうろつくと実を結んだ園芸種のクリンソウのタネが足にたくさん付くことになります。そして森に戻ったシカが湿った場所、小川の縁にそのタネを運んだと考えられます。
もともと日光にも野性のクリンソウはあったと思います。しかし、このクリンソウを見ると、どのように見ても園芸種用に作られたクリンソウだと思います。千手ヶ浜のクリンソウが見事な群落を見せるようになったのは、シカが増えた近年になってからといわれています。
そういえば、雲南のプリムラ セクンディフローラPrimula. Secundifloraの群落の景色の中には動物がいました。プリムラは牛などの家畜も食べません。
プリムラ ポイソニーPrimula poissoniiの群落の後ろにもいました。この美しい風景も牛などが作ったのです。そして、プリムラ属の世界的拡散にも動物が密接に関わっているのだと思います。水辺に生えるプリムラが川上から川下へ生活圏を広げるのは、物理的に説明できます。しかし、水平方向や川上への拡散には、中禅寺湖のシカの役割が示すように動物などの介在が必要です。
あるいは翼を持つ生き物と一緒に、プリムラのタネは空を飛んだのかも知れません。プリムラが雲南南西部の高山から4000km程度離れた日本にたどり着くまで、いったいどれだけの時間が必要だったのでしょうか。それは遥かなる旅路です。
プリムラは旅路の果てにユーラシア大陸の西にたどり着きました。それらのプリムラは、画像のプリムラ ベリスPrimula verisやプリムラ ブルガリスPrimula vulgaris、プリムラ エラチオールPrimula elatiorです。これらのプリムラは淡い黄色を基本色とします。それをプリムローズといい、薄い黄色です。それは欧州に咲くプリムラの色に因みます。
一方、東の果ての日本にたどり着いたプリムラは、さくらそうPrimula sieboldiiに代表されるピンクかホワイトでした。日本に黄色のプリムラは来ていません。
雲南で仲良く咲いていた黄色いプリムラとピンクのプリムラはどこで別れたのでしょうか。黄色を好み、花粉媒介能力が低いけど、低温でも働くハナアブ類、紫色を好み、花粉媒介能力が高いけど、低温に弱いハチ類。大陸の両端にたどり着いたプリムラは「虻蜂取らず」ではなく、どちらかを選択したのだと思います。植物たちは、動物、鳥、虫、あるいは人間と複雑に結びついて生きてきました。地球がある限り、植物たちの果てしない旅は続きます。
次回は「ヒマラヤ巡礼[前編] ヒマラヤの西部に自生するマツ」です。お楽しみに。