小杉 波留夫
こすぎ はるお
サカタのタネ花統括部において、虹色スミレ、よく咲くスミレ、サンパチェンスなどの市場開発を行い、変化する消費者ニーズに適合した花のビジネスを展開。2015年1月の定年退職後もアドバイザーとして勤務しながら、花とガーデニングの普及に努めている。
趣味は自宅でのガーデニングで、自ら交配したクリスマスローズやフォーチュンベゴニアなどを見学しに、シーズン中は多くの方がその庭へ足を運ぶほど。
本州最東端[後編] 言い伝えとウメガサソウ
2017/06/06
梅雨の時期、三陸の海は恐ろしげに重く、うねっていました。岩手県宮古市の重茂(おもえ)半島姉吉(あねよし)地区。ここは本州最東端の地として知られています。東日本大震災では、姉吉地区には最大の40.5mの津波が押し寄せました。しかしこの地区では一人も人的被害を出さなかったのでした。ここにはある言い伝えが石碑に刻まれていたのです。それは大きな困難にあった人にしか表せない戒めと、未来の子どもたちへの愛情のこもった言霊でした。
東経142度04分、本州最東端重茂半島姉崎の海岸は、切り立った岬と湾が連続しています。周りは自然林に囲まれています。ほとんどの人が漁業で生計を立てる地域ですが、海岸部に人家はありません。そこには昭和8年の津波の後、石碑が立てられ、この言葉が刻まれていました。
「高き住居は児孫の和楽/想へ惨禍の大津浪/此処より下に家を建てるな/明治二十九年にも、昭和八年にも津浪は此処まで来て/部落は全滅し、生存者僅かに前に二人後に四人のみ/幾歳経るとも要心あれ」
三陸の海は豊かな海です。沖合いでは親潮と黒潮がぶつかり、ユーラシア大陸で生まれた栄養塩類がたどり着く場所とされます。そして、周りは自然林に囲まれて魚つき林を作ります。ここは海草やアワビなどの沿岸漁業も盛んに行われています。岬に立ち、海のうねりを眺めていると、引きずりこまれそうな海です。この海に向かい、生活の糧を求め、こぎ出す人たちの勇気を感じざるを得ません。東日本大震災の津波は、姉崎では石碑の50m手前で止まりました。三陸の荒波と向き合いながら暮らす人々に、石碑の文字はDNAに刻まれていたのだと思います。この部落では皆、高台に暮らしていたので難を逃れたのでした。
姉吉地区の断崖にはニッコウキスゲHemerocallis middendorffii(ヘモロカリス ミッデンドルフィ)ユリ科ヘメロカリス属が波飛沫のかかる断崖に咲いていました。満潮時の水没線のすぐ上、高潮があれば波をかぶる場所です。山地に生えるニッコウキスゲですが、海岸に生える株には塩分に対する耐性が遺伝子に刻まれているはずです。
断崖への坂道を登っていくと、高いこずえに漁具がぶら下がっていました。それはこの場所の津波到達点を示す遺構だと思います。
さらに上っていくと薄暗いアカマツの根元に、白い小さな蕾を下向きに付けているウメガサソウが白い蕾を付けていました。ウメガサソウChimaphila japonica(チマフィラ ジャポニカ)ツツジ科ウメガサソウ属。種形容語のjaponicaの意味はお分かりだと思います。ウメガサソウは東アジアの中部から北部の低山もしくは海岸林に生える植物です。
花が咲くとコロンとしたかわいらしさです。和名のウメガサソウとはこの丸い花弁に由来します。ウメのような丸い花が下向きに、傘のように咲く姿からの命名でしょう。花の大きさは1cm程度です。
ウメガサソウはこの大きさでも常緑樹とされています。地上の茎は10cmくらいです。数少ない葉を輪生状に付け、単幹もしくはわずかに分枝します。葉は硬く、鋸歯があります。ウメガサソウは薄暗い林床や林縁に生え、しかもこの造作物です。柄にもない大きな花を咲かせるにはずいぶんと無理のある生態と形態だと思います。そうすると光合成以外に何か副業をしているのかも知れません。
以前に幽霊のごとく、ユウレイタケとも呼ばれるギンリョウソウを紹介しました。今までギンリョウソウの分類はシャクジョウソウ科とされていました。一方、ウメガサゾウはイチヤクソウ科で違う分類だったのです。ギンリョウソウとウメガサソウを並べて比較すると不思議な縁を感じます。おしべは共に10個、柱頭は平らで丸型。印象も似ています。最近の研究では共にツツジ科へと分類が変わりました。ウメガサソウはギンリョウソウの親戚筋だったのです。違うところは、ギンリョウソウは全てのエネルギー源を菌類に依存して生活するのですが、ウメガサソウは光合成で足りない栄養を菌類に依存しながら、植物としての生き方を忘れていないことです。
本州最東端、宮古市重茂半島は宮古の町からもかなり遠い場所です。日本の秘境100選に選定され、まさに秘境の名にふさわしい場所でした。夕闇が迫り、長居はできない場所です。道すがら高台に漁協や町、小学校が狭い傾斜地に張り付くようにあるのは、他では見ることのできないものでした。ここでは古き伝承「高き住居は児孫の和楽」を守り続けて暮らしているのだと思います。
次回は「孔子の墓所に落ちていた種子から日本に広まったとされる 楷(カイ)の木」です。お楽しみに。