小杉 波留夫
こすぎ はるお
サカタのタネ花統括部において、虹色スミレ、よく咲くスミレ、サンパチェンスなどの市場開発を行い、変化する消費者ニーズに適合した花のビジネスを展開。2015年1月の定年退職後もアドバイザーとして勤務しながら、花とガーデニングの普及に努めている。
趣味は自宅でのガーデニングで、自ら交配したクリスマスローズやフォーチュンベゴニアなどを見学しに、シーズン中は多くの方がその庭へ足を運ぶほど。
湿原のランラン ミズチドリとカキラン
2021/06/08
野生のランたちは、「光合成だけで生きるにあらず」。これは、「東アジア植物記」の中で何度か取り上げた話題です。ランの種子には胚乳がありません。双葉に栄養をためて発芽のエネルギーにするわけでもありません。種皮の中に忍び込んだ菌類の菌糸から水分と養分を吸収して成長していきます。生まれながらにランは「菌使い」なのです。大人になっても、足りない栄養分は、地中に張り巡らされた菌類のネットワークから調達します。
植物は、光合成によってできた糖分と、吸収した無機元素から栄養をつくります。土には、無機元素を蓄える機能がありますが、土のない湿地では、水に溶けた無機元素をためておくことができないのです。そんな場所で生きるには工夫がいります。ランたちは光合成の他に地上の菌類から栄養を吸収し、モウセンゴケは、無尽蔵にいる虫たちを栄養の補助にしています。
初夏、この高層湿原には、トキソウが咲き、真夏にオオヤマサギソウが咲いていました。ここでも、トキとサギがいました。それは湿地つながりの鳥と植物の不思議な縁です。
初夏に湿原を青く染め上げる、ヒオウギアヤメIris setosa(イリス セトーサ)アヤメ科アヤメ属。英語でArctic Iris(北極アヤメ)といい、東アジア北部のみならず、シベリア、アラスカ、カナダと北極海を取り巻く地域に生えるアヤメです。この花が咲き終わると湿原は真夏の装いとなります。
夏になると湿原では、冬に地上部を枯らした宿根草たちが生い茂ります。そのやぶを突き上げるように咲くのが、純白の花を咲かせるミズチドリです。ミズチドリは大きな花穂を伸ばします。通常70cm程度の背丈ですが、大きなものでは120cmほどもありました。
ミズチドリPlatanthera hologlottis(プラタンテラ ホログロティス)ラン科ツレサギソウ属。属名のPlatantheraは、platy(大きい)anther(葯(やく))の合成語で、大きな葯を持つという意味です。種形容語のhologlottisについては、花を拡大した次の写真で説明します。
ツレサギソウ属は、主に北半球に生息しますが、南半球からも報告があり、意外と広範囲に生息していて大家族なのです。写真はツレサギソウ属のツレサギソウですが、面白いうんちくを一つ。それは、ラン科によくある子房のねじれです。葉腋から真っすぐに花を咲かせると雄しべ、雌しべを格納する唇弁が上を向きます。生殖器官は雨に弱いので、それを避けなければいけません。素直に横や下に向けばよいのに、ラン科の多くは子房を180度ねじって横向きになります。
ミズチドリでも、子房は180度ねじれていました。ねじれることで、花被構造の強度が増すのかもしれません。
さて、ミズチドリの種形容語のhologlottisの説明です。holoとは完全に、glossoとは舌状という意味です。それはミズチドリの唇弁が舌を突き出しているように見えるからです。
ミズチドリは、根茎を持つ大型の湿地ランです。日本を含む東アジア北部の暖温帯~亜寒帯の湿地や湿原に広く生息します。ツレサギソウ属の中でその花色はとりわけ白く、ほのかな香りがあります。暗闇の中で最も目立つ色は白です。香りを放ち、匂いに敏感な暗闇の生き物がその花粉媒介を行っているはずです。
夏の湿原でミズチドリは、草むらから突き出て、その存在を誇示するように咲いていました。一方、草陰に隠れるようにひっそりと、カキランが、あそこにも、ここにも小さな群落をつくっていました。オレンジ色の花は暗闇では見えません。こちらは、昼間の生き物が花粉媒介をしているのです。同じ場所で湿原のランたちは、訪花昆虫を使い分けているようです。
カキランEpipactis thunbergii(エピパクティス ツンベルギー)ラン科カキラン属。種形容語のthunbergiiは、命名者ツンベルクに由来します。カキランは、地下茎から1本の茎を立ち上げ開花する、東アジア北部の地生ランです。以前に、黒松林に生えるカキランとその近縁種を紹介しました。そこは、砂地で意外と乾燥した場所でした。ここは、多湿な湿地です。
ラン類には、菌類との関係が不可欠です。それには、特定の菌類が特定のランと関係を持っているはずです。ミズチドリやトキソウ、サワランは、湿地以外の菌類とは関係を持たないのでしょう。他の環境で見ることはありません。 カキランを林縁や黒松林、湿地などで見るのは、このランが、多様な環境に生息する、多様な菌類との関係構築に成功している証しでもあります。カキランは、したたかな外交上手なのでした。
次回は、夏の夜に一夜だけ咲く、妖艶なサガリバナのお話です。お楽しみに。