小杉 波留夫
こすぎ はるお
サカタのタネ花統括部において、虹色スミレ、よく咲くスミレ、サンパチェンスなどの市場開発を行い、変化する消費者ニーズに適合した花のビジネスを展開。2015年1月の定年退職後もアドバイザーとして勤務しながら、花とガーデニングの普及に努めている。
趣味は自宅でのガーデニングで、自ら交配したクリスマスローズやフォーチュンベゴニアなどを見学しに、シーズン中は多くの方がその庭へ足を運ぶほど。
密林に生きる[前編] 緋桐(ヒギリ)
2021/07/13
中国で最も知られているお坊さんは、なんといっても玄奘(げんじょう)三蔵法師でしょう。仏教の誠の教えを得ようと天竺(てんじく)までの求法の旅は、『西遊記』という小説にも書かれて、あまりにも有名です。
仏像の後ろにそびえる、長安(現西安)大慈恩寺大雁塔には、玄奘三蔵法師が天竺から持ち帰った大量の仏典が今でも納められています。「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空」から始まる般若心経は、玄奘の新訳とされるのですが、この核心部分は玄奘の生きた時代から200年も前に訳されていたといいます。
それは、かつて存在した中央アジアのオアシス都市、亀茲国(きじこく)の三蔵※ 鳩摩羅什(くまらじゅう)によって行われたといいます。彼は、はるか西に位置する西域の僧です。そこは、直線距離にしても2700kmほどもある、遠い場所。鳩摩羅什は、中国古代王朝の軍によって捕虜とされながらも、仏教の教えを広めたのです。
※三蔵とは、仏教の全てを習得した高僧に与えられる称号のこと。
シルクロードの起点となった西安の西門です。玄奘は、国禁を破って天竺まで往復約3万kmというはるかな旅に出ました。西部方面には、鳩摩羅什の亀茲国などに通じる交易の道、シルクロードがあったのです。それにしても、なぜ、距離優先の直線でインドまで行かなかったのか? 中央アジアを横断して、折り返す玄奘の道のりは、あまりにも遠回りでした。
西安から南に歩を進めると、そこには秦嶺山脈がそびえます。そこを越えても中国横断山脈があり、その先は世界の屋根とされるヒマラヤです。そんな、山また山の地域を人力で越えることはできません。
東に進路をとり、インド方面の南に転じると、そこは人跡未踏の熱帯ジャングルが広がります。高温多湿の地を、やぶこぎ※して旅することは、やはり人には無理な話です。玄奘が、途方もない遠回りをして天竺に向かったのには理由があったのです。
※ササや雑草、タケ、低木などが、繁茂し進行がままならない山野をかけ分けて進む様子。
東アジアの最南端は、ベトナム、ラオス、ミャンマーと国境を接します。植生的にも熱帯雨林に分類される地域があります。そこは、遠目で見ても、近づいても高温高湿度の緑の魔境。文明の恩恵を享受して生きる私たちが住める場所とは言い難いのです。
「熱帯雨林」という名前は、私には植物があふれる夢の楽園と同じ響きを持っていたのでした。どんなに美しい花を見ることができるのだろう、の期待とは裏腹に、緑色の葉、大きな葉、妙な形でツヤツヤの葉、葉、葉、葉のオンパレードです。葉は嫌いではないけれど、葉、多過ぎ! 昼間でも薄暗く、気温40℃、湿度も100%と思われるほど蒸し暑すぎる!
そんな、緑の海で見つけた救いの赤い花。熱帯雨林の極相林においても台風で崖が崩れたり、大きな木が倒れたりするとギャップ(開けた空間)が生じます。そんな場所では緋桐(ヒギリ)が花を咲かせていました。きっと、傷ついた大地をいち早く修復するパイオニア植物の役割を担うのでしょう。
ヒギリClerodendrum japonicum(クレロデンドルム ジャポニカム)シソ科クサギ属。種形容語のjaponicumに注目してください。日本産という種形容語を持つヒギリですが、日本には生えていません。この植物の日本への来歴は古く、江戸時代とされ、その命名者が日本のどこかでこの植物を見かけたのでしょう。現在では、ヒギリを日本で見ることはまれだと思います。
ヒギリ(緋桐)の葉は大きく、確かにキリのようですが、キリ属ではありません。この植物の学名の種形容語はjaponicumですが、日本産ではなく、東アジアの最南部から、インドシナ半島、インド北部原生とされています。このように、和名、学名ともに矛盾があることがしばしばです。
「色即是空」と鳩摩羅什は、仏典を訳しました。名前や形、現象だけにとらわれず、自分で判断ができるようになりたいものです。
次回は「密林に生きる[後編] バナナ」です。東アジアにおいて、ジャイアントパンダ以上に貴重で、生息数の少ない大きな哺乳類も登場します。お楽しみに。