これまで私は、サクラの起源がどこにあり、どのような進化の道筋をたどって日本列島へ伝播したのかいろいろと考えてきました。
赤いがく片を持つサクラ類の由来、日本のヤマザクラ複合体の旅路を起点に、北の旅人となったオオヤマザクラの伝播を推察し、さらにオオシマザクラなどの派生にまでたどり着きました。
また、エドヒガンザクラの源流と成り立ちを考え、サクラが交雑進化を経て多様化してきた過程にも、理解を深められた気がします。
しかし、日本の山地には、こうした大きな流れでは説明ができない特殊な「山岳系サクラ群」がひっそりと暮らしています。私は、これらサクラたちの秘密を解き明かさない限り、サクラの旅路の全容が見えないように思います。

改めて空から日本列島を見下ろしてみると、そこに広がるのは、多くの山々とわずかな平野が見えます。
日本は「海洋国家」とも呼ばれますが、同時に「山岳国家」としての側面を持っているのではないでしょうか。日本の国土の約70%はあまり人が住まない山地で占められ、残る約30%の平地に国民のほとんどがひしめき合うように暮らしています。

そして興味深いことに、日本列島全体は、南北に連なる山脈の集合体として成り立っています。サクラの起源とされる横断山脈も南北に1000kmほど長い連なりであり、この二つには不思議な共通性が見いだせます。
ヒマラヤ山脈やヨーロッパアルプス、秦嶺山脈のように東西に延びる山脈は、北と南の気候を分断し、生物の行き来を遮断する壁として機能します。一方で、南北に連なる山脈は、気候帯が連続的につながるため、生物の移動を容易にし、自由な「自然環境回廊(ecological corridor)」として働きます。
さらに、複雑に入り組んだ山岳地形は、気候変動や環境変化の際に動植物の避難所にもなり得ます。このような構造こそが、横断山脈と日本列島を生物多様性に満ちた地域へと育んできたのだと思います。

日本の山々は、多様性の振れ幅が極めて大きく、実にさまざまな環境があります。太平洋側には乾燥した山地が広がり、一方で日本海側には寒冷で多湿な山地が見られます。
日本にたどり着いた植物たちは、それぞれの環境に適応しながら、分化していったと考えられています。

上の写真は、アオモリトドマツが茂る、岩手と秋田にまたがる八幡平です。その台地状の地形には6月になっても雪が地表に長く残り、周囲には雪解け水がしみ出して、独特の湿地環境が広がっています。

こうした場所では「高山雪田湿原」と呼ばれる環境が形成されます。そして、その厳しくも豊かな自然の中に、この環境に適したサクラが生えていました。

タカネザクラ
タカネザクラPrunus nipponica(プルヌス ニッポニカ)バラ科サクラ属。タカネザクラは、日本で最も標高の高い場所に生息するサクラとして知られています。種形容語のnipponicaは「日本産」を表わしたものです。
この学名を与えたのは、東京帝国大学教授であり、小石川植物園初代園長だった松村任三氏です。彼は牧野富太郎氏といろいろなエピソードを持つ人です。
タカネザクラの基準山地は日光とのことですが、周辺の高山で採取された標本をもとに、本種の学名を付けたとされています。

タカネザクラPrunus nipponicaは、花よりも先に葉が展開する「後花性」です。がく片は筒状で、花は下向きに咲き、直径は2.5~3.5cmと小ぶりです。花色は、淡い桃色から白が見られます。
エドヒガンザクラを記述した章では、花が葉より先に出る「先花性は山岳系サクラの特徴」と述べましたが、ここで少し説明が必要かもしれません。本来、植物は芽が伸びて、葉が展開し、光合成によってエネルギーを蓄えて、花を付けるというのが、最も自然です。
つまり「先花性」は、山岳環境への適応の結果で、派生した形質と考えられるのです。山岳系サクラの中でも、後花性を持つタカネザクラは、エドヒガンザクラより原始的な形質を持っていると考えられます。

タカネザクラの生息環境について整理したいと思います。
このサクラは、日本の山岳系サクラの中で特に標高が高い環境に分布し、寒冷で湿潤な環境に適応したサクラです。その分布域は、千島列島から樺太南部、北海道、本州へと広がります。本州では、標高1500〜2800mの湿潤型高山環境に生息します。

タカネザクラは、厳しい自然環境に適応しているため、高木にはなりません。特に雪が多く、夏の短い地域では、ツツジのように低木となり、樹高が1~2mにとどまります。

タカネザクラを観察していると、いくつか気づかされる点があります。
それは、花が下向きに開帳気味に咲く個体や、花が十分に開かない個体などが散見されることです。きっとタカネザクラも「タカネザクラらしさ」を持ちながらさまざまな形質をもった種の複合体なのだろうということがうかがえます。
そして、さらに興味を引かれるのが赤いがく片を持つ個体があることです。それは、北の大地に咲くこのタカネザクラに、亜熱帯に生息するカンヒザクラの面影を感じさせます。
次回は、「山岳系サクラ群―チョウジザクラ」について考察します。お楽しみに。