東アジア植物記 サクラの旅路[その14]旅路の果てに

マメザクラの記事を書き終えたとき、「サクラの旅路」でたどってきた長い歴史の中に、三つのルートが浮かび上がってきました。それぞれの道のりは、押しては返す波のようでもあり、何万年もの時を重ねながら連なってきたものです。

前へと進んでは押し戻され、その途中で途絶えていったサクラたちもあったことでしょう。それでもなお、異なる系統が交わりながら、その旅は続いてきました。

日本列島は、東アジアの大地が果てる場所。その地には、サクラたちが求めてやまなかった楽園が広がっていたのです。

ヒマラヤ山脈から横断山脈周辺で成立した山岳系サクラ群は、高山環境の中で磨かれた強い耐寒性を備えていました。

横断山脈から東へ進むと、雲貴(うんき)高原や南嶺(なんれい)山脈など標高の高い、南北方向の山地が連続しています。冷涼な気候を好むサクラの一群は、こうした山岳帯をたどるように生息地を広げていったと考えられます。

そして最終氷期の最盛期(LGM:Last Glacial Maximum)ごろ、東アジアに出現した山岳回廊を伝って北上し、その一部が日本列島へとたどり着いたと考えられます。

このルートは、平地において亜熱帯気候帯に相当します。そのため、標高の低い地域に生息する、カンヒザクラなどの亜熱帯系サクラ群との間に鳥類を介した交雑があったと考えられます。

そうした関係が、日本の山岳系サクラが持つ「赤いがく片」の形質に影響した可能性も、まったくの夢物語ではありません。これを、私は「第1ルート」と捉えています。

この第1ルートは複雑で、第1波、第2波、あるいは第3波といった段階的な進出があったと考えられます。第1ルートの第1波は、強い耐寒性を持つタカネザクラ、チョウジザクラ、マメザクラのご先祖さまへとつながっていったのではないか?と、私は考えています。

氷河期にも、比較的暖かった期間が存在します。こうした期間は、「間氷期(interglacial)」と呼ばれています。

このような気候の緩みは、亜熱帯の山地における低山帯や平地で暮らしていたサクラたちにとって、旅を開始する契機となったのではないでしょうか。彼らは、比較的温暖な気候に支えられながら、すでに山岳系サクラ群たちがたどったルート、あるいは迂回(うかい)するルートを経て、日本列島へと向かったと想定されます。

その代表として挙げられるのが、時期こそ異なるものの、エドヒガンとカンヒザクラです。低地に生息していたカンヒザクラ本体は耐寒性を獲得する機会を持ちえず、そのため沖縄付近で旅路を終えたと考えられます。一方、エドヒガンは、済州島にもその痕跡を残しながら、日本本土にたどり着いたのではないでしょうか。

それは、第1ルートにおける第2波、あるいは第3波と位置付けられる移動だったのかもしれません。

一方で、大陸の低山に生息していたサクラは、氷期・間氷期の気候変動の中で、北へ押し出されるように分布を広げていきました。氷期には寒冷化で低地へ降り、間氷期には再び山地へ戻る――そうした往復を繰り返す過程で、中国を南北に分ける秦嶺(しんれい)山脈へと至ったと考えられます。

そして、その南側において、やがてシナヤマザクラ複合群と呼ばれる姿へまとまっていきました。

温暖で豊富な降水量を必要とするサクラたちは、秦嶺山脈を越えることなく、東へと迂回したと考えられます。そして、河南省や山東省などの山地を経由し、キャラバン隊となって朝鮮半島南部に至り、日本列島へ到着しました。

そこは、このサクラ群が求めていた「約束の地」だったのかもしれません。それが、第2のルートに当たると考えられます。

こうして日本の地理と気候の中で、「ヤマザクラらしさ」が次第に形成されていきました。それが、日本のサクラの中核を成すヤマザクラ複合体です。

オオヤマザクラ

秦嶺山脈でキャラバン隊となったサクラたちは、さらに東に向かうルートと北へ進むルートとに隊を分けていきました。

北ルートをとった一群は、朝鮮半島北部からロシア沿海州、さらには樺太へと至りました。そこでは、もはや温暖な気候とは縁を切ったかのような、過酷な旅が続いたと思います。

そのような環境の中を生き延びた系統こそが、「北国の女王」とも呼ばれるオオヤマザクラだったのでしょう。

オオヤマザクラは、旅の途中で大きな体格を手に入れました。

大陸と樺太(からふと)の間にある間宮海峡や、樺太と北海道を隔てる宗谷海峡は、氷河期には陸続きとなっていました。一方で、津軽海峡は氷期にも海として残っていたとされますが、鳥類にとっては必ずしも大きな障壁ではなかったはずです。

こうした地理条件のもと、オオヤマザクラは北方から、ロシアを経て北海道、さらに本州へと旅を続けたのです。

これが、第3のルートだと考えられます。

旅路の果てに立ってみると、サクラたちがたどってきた道の長さをあらためて思わされます。大陸の山脈を越え、氷期の風に押され、ときに海を越えながら、日本列島という終着の地へとたどり着いたサクラたち。 

サクラは、どの地でもきれいな花を咲かせます。しかし、サクラがこれほど人々に愛され、見事な開花を見せる地は、日本の他にありません。日本列島は、サクラの楽園である――そのように考えられるのです。

楽園にたどり着いてもサクラたちは、歩みを止めることはありませんでした。

20世紀前半、富山県にある蠟山(ろうやま)で日本の植物学者によって、あるサクラの自然雑種が発見されました。そして、それはコシノヒガンザクラ(Prunus×subhirtella f. koshiensisバラ科サクラ属)と命名されました。

コシノヒガンザクラは早咲きで、花を下向きに咲かせるサクラです。

コシノヒガンザクラは、山岳系の特徴を持ち、エドヒガンザクラに見られるようなつぼ型のがく筒を備えています。その一方で、どこかマメザクラの風貌を併せ持つのです。

花の大きさはおよそ3.2cmで、親と考えられるマメザクラやエドヒガンよりも大きくなっています。遺伝子解析の結果、コシノヒガンザクラはエドヒガン(二倍体)とマメザクラ系(二倍体)の交雑であることが判明しました。

さらに、どちらかの親が異数性配偶子(2n配偶子)を形成した結果、三倍体となったことも示されています。

タマホシザクラ

エドヒガンとマメザクラ交雑は、比較的頻繁に生じているとみられます。例えば、伊豆半島ではホシザクラPrunus×hosizakura、多摩丘陵ではタマノホシザクラPrunus×subhirtella f. tamaclivorumといった、いずれも二倍体の地域限定的な自然交雑種が、近年になって発見されています。

特に写真のタマホシザクラは、つぼ型のがく筒を持ち、がく片が特に赤く色付きます。その深い赤色と白い花弁のコントラストが、とても美しいサクラなのです。

クマノザクラ

さらに2018年、紀伊半島南部において、新たなサクラが発見されました。クマノザクラPrunus kumanoensis(プルヌス クマノエンシス)バラ科サクラ属です。

クマノザクラは、ヤマザクラ(Prunus jamasakura)の近縁と考えられています。しかし、一つの花序に二つの花を付けること、花色が濃く開花が早い先花性を持つこと、細枝性であること、赤いがく片を持つことなど、山岳系サクラに見られる特徴を併せ持っています。

このようにヤマザクラ複合体としてひとくくりにして説明できない性質を示すことから古い時代に成立した自然交雑体である可能性が指摘されています。

研究がさらに進めば、この国土で多くの自然交雑体が見つかる可能性もあります。

さまざまなルートをたどり、長い時間をかけて日本にたどり着いたサクラたちは、歩みを止めませんでした。出会いと別れを繰り返す人々のように、一つ一つの生を重ねながら、新たな姿を生み出し続けてきたのです。

サクラの旅路は終わりません。静かに、そして確かに、今もなお続いているのでした。

次回から『江戸時代と花菖蒲』のお話が始まります。お楽しみに。

小杉 波留夫

小杉 波留夫

こすぎ はるお

サカタのタネ花統括部において、「虹色スミレ」「よく咲くスミレ」「サンパチェンス」などの市場開発を行い、変化する消費者ニーズに適合した花のビジネスを積極的に取り組む。定年退職後は、学校の先生に対する園芸指導や講演活動をしながら、日本家庭園芸普及協会の専門技術員として、自ら開発した「たねダンゴ」の普及活動などを行っている。
生来の「花好き」「植物好き」である著者は、東アジアに生息する植物の研究を楽しみに、植物の魅力を発信中。

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