徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開いたのは1603年のことです。それから約260年にわたり、大きな戦乱のない、比較的安定していて平和な時代が続きました。それが江戸時代です。
江戸幕府が政治権力を握り、大名が領地を治め、農民は土地に縛られるという封建的な身分制度の社会でした。しかしその一方で、経済活動は活発に展開し、都市には町人文化が芽吹くなど、多様な文化が大きく花開いていきました。

武士を中心とした社会ではありましたが、平和の実現によって経済が大きく発展し、人口の増加とともに都市化も進みました。その中で、すしや天ぷらなど和食の基礎が形づくられ、相撲や歌舞伎、浮世絵といった大衆娯楽も庶民の楽しみとして広がっていきました。
そして、サクラの花見が広まり、キクやアサガオ、ハナショウブといった季節の花を愛(め)でる園芸文化もこの時代に生まれたのです。

幕府は諸大名を統制するため、参勤交代を制度化し、大名の正室や嫡子を人質として江戸屋敷に住まわせました。特に下屋敷は、大名の格式を示す場として、広大な日本庭園が造られ、外交の場としても用いられました。
こうした空間を楽しみ、風雅を好む大名たちによって、各地から樹木や植物、庭造りの技術が江戸に集められたのです。

当時、江戸の中心地は約70%が武家地で占められていたといわれています。現代でも東京都文京区の「六義園(りくぎえん)」や中央区の「浜離宮(はまりきゅう)庭園」にその面影が残ります。
このような庭園を支えていた庭師たちは、武家地の周辺に位置する町人地の長屋に暮らしていました。そうした生活環境の中で、庭園で扱う植物や技術が町人へと伝えられていきます。やがて、大名や武家のものとして楽しまれていた園芸が、市中へと広がっていきました。
浮世絵に花が描かれ、日本で最初の園芸書といわれている『花壇地錦抄(かだんじきんしょう)』や本草(ほんぞう)学書の『本草綱目啓蒙(ほんぞうこうもくけいもう)』が出版されるなど、文化的な広がりも見られました。こうした江戸文化と相まって、今につながる園芸文化が花開いていったのです。

世界に類を見ない花好きの国民性と語られる「花好き日本」の原型は、この時代に形作られたのだと思います。
アサガオ、キク、サツキ、ツバキ、フジ、サクラ、盆栽――さらには斑(ふ)入りといった形質が異なるものや多様な観葉植物に至るまで、人々は花だけでなく葉や実を愛(め)で、樹形そのものすら楽しんできました。こうして、日本独自ともいえる多様で独特な園芸文化の基礎が築かれていきました。

ヨーロッパでは、地中海沿岸に自生する野生カンランBrassica oleracea(ブラシカ オルラセア)アブラナ科アブラナ属から、ケール、キャベツ、カリフラワー、ブロッコリー、メキャベツなどの重要な作物が育成されてきました。
しかし、日本に伝えられたその系譜は、江戸時代の人々の手によって、食べ物ではなく、観賞の対象として発展し、品種が作り上げられました。こうして生み出されたハボタンは、冬枯れの中にあっても鮮やかな彩りを見せる園芸花きの傑作といえる存在です。

このように多様な園芸植物が開発された江戸時代において、とりわけ武士に高い人気を誇ったのがハナショウブでした。その凜とした立ち姿と、刀のように鋭い葉は、武士のあるべき姿を象徴するものとして受け止められていたのです。
さらに「菖蒲(しょうぶ)」は、「尚武(しょうぶ=武を尊ぶ)」と重ねられる掛け言葉となったことも都合がよかったのです。武士が花を愛(め)でることは、自らの精神を整え、一時の平穏を享受するためのしゃれた口実にもなったのでしょう。

さらに加えて、ハナショウブが武士に好まれた大きな理由として、日本庭園の作庭様式が挙げられます。日本庭園は、日本の自然景観を写し取るように構成され、その中心には多くの場合で「池泉(ちせん)」があります。
ハナショウブは、そうした水辺の景観として見事に調和していました。

東京都葛飾区にある「堀切菖蒲園」は、単なるショウブ園ではありません。江戸時代に作られたハナショウブの品種を現代に伝える、いわば「生きた博物館」のような場所です。
現在、私たちが目にするハナショウブの多くは、江戸時代に成立した品種群に由来すると考えられています。世界広しといえど、野生のノハナショウブをもとに、これほどまでに独自の園芸品種群を作り上げた例は他にありません。それはまさに、江戸時代の日本に特有の営みだったのではないでしょうか。
次回は、『江戸時代とハナショウブ[その2]』として「ハナショウブがどのように育成されたのか」を考察してみたいと思います。お楽しみに。