東アジア植物記 ミョウガ[後編]

ショウガ科植物の生まれ故郷は、むせかえるような湿気に包まれた東南アジアの熱帯雨林です。ミョウガが自生していた地域も、本来はその一部でした。

しかし、ヒマラヤ山脈の形成に伴う地殻変動(ヒマラヤ造山運動)によって地形が隆起し、環境は大きく変わっていきました。

そうして現在の山間部へと環境が変化した結果、ミョウガは比較的冷涼な気候を好むようになったと考えられます。

ミョウガの花

ミョウガの果実や種子を実際に見たことがある人は、それほど多くないでしょう。しかし、花を見る機会はあるかもしれません。

ミョウガの花は淡黄色の一日花で、花序を包む苞(ほう)の内部からひっそりと咲きます。花の構造はショウガ科植物らしく三数性で、やや複雑です。

がく片は3枚が合着して筒状となり、花弁も3枚あります。背側の花弁は幅広く、側方の2枚は細く垂れ下がります。雌しべは1本が前方に伸び、雄しべは3本あります。そのうち2本は合着し、唇弁状に大きく発達して前方に広がります。残る1本だけが前方に突き出し、可稔(ねん)性のある雄しべとして機能しています。

ロスコエア カウトレオイデス

私は、上の写真に写るミョウガの花によく似た植物を、雲南の標高3500m付近の高山で見たことがあります。

ロスコエア カウトレオイデスRoscoea cautleoidesショウガ科ロスコエア属の植物です。属名のRoscoeaは、イギリスの植物学者ウィリアム・ロスコー(William Roscoe、1753~1831)にちなみます。種形容語のcautleoidesは、その花がラン科カトレア属(Cautleya)に似ていることに由来します。

ロスコエア属はショウガ科の仲間ですが、ミョウガとの近縁性は高くありません。それにもかかわらず、花の形がよく似ています。これは、異なる系統の植物が似た環境に適応した結果、似た姿になる「収斂進化(しゅうれんしんか)」によるものだと考えられます。

この仲間は、ヒマラヤ造山運動によって形成された高山環境へ適応し、ミョウガよりもはるかに高所へ押し上げられ、高山植物として進化したショウガ科植物の一群なのです。

さて、私はミョウガが好きです。薬味としてだけでなく、酢漬けやみそ汁の具など、野菜としてもとてもおいしいと思います。

子どものころ、「ミョウガを食べると物忘れする」とよく言われました。夏になるとミョウガを食べ続けてきた私は、確かに忘れ物の多い人間になりました。これは、ミョウガのたたりなのでしょうか。

ミョウガの和名「茗荷」は、「名前を荷なう」という意味の漢字で書かれています。

これには有名な逸話があります。お釈迦(しゃか)様の弟子の一人、周利槃特(しゅりはんどく)は物忘れが激しく、自分の名前すら覚えられなかったといいます。そこで周利槃特は、自らの名を旗に書き、それを荷(に)なっていたといいます。しかし、その旗の存在すら忘れてしまうほどだったとも伝えられています。

それでも周利槃特は掃除に励み、精舎(しょうじゃ)のちりを払い続けることで悟りを開き、やがて「阿羅漢(あらかん)」となりました。後に、彼の墓から奇妙な草が生え、それを「茗荷」と呼ぶようになったとされます。これが「ミョウガを食べると物忘れする」という言い伝えの由来です。

しかし、植物地理学的にみれば、インドとミョウガを結び付ける根拠はありません。また、生化学的にもミョウガと記憶力との間に因果関係は認められていないようです。

ミョウガという植物の伝来を考えてみます。

中国少数民族のイ族の友人たちはミョウガを食べますが、私の知る漢族の友人たちには、その習慣がほとんどありません。また、中華料理の主流的な体系の中でもミョウガを目にする機会は多くありません。

つまりミョウガは、中国では長江以南の山地に生育する辺境の植物であり、一部の少数民族に利用され、山菜としての性格が強いように思われます。

では、そのような植物がどのような経路をたどって日本へ伝わったのでしょうか。その手掛かりを探るには、東アジアの歴史の中に埋もれた痕跡をたどる必要があります。

始皇帝が封禅の儀式を行った泰山

紀元前1046年ごろに成立した中国最古の長期王朝とされる周は、やがて衰退し、地方の諸侯がそれぞれ王を名乗って覇権を争う春秋戦国時代へと移ります。

やがて秦(しん)が勝ち残り、中原(ちゅうげん)を統一しました。秦王である嬴政(えいせい)は「始皇帝」を名乗り、泰山で封禅の儀式を執り行い、天と地に統一事業の完成を報告したと伝えられています。始皇帝は文字や貨幣に加え、長さや体積、重さなどの基準である「度量衡(どりょうこう)」を統一しました。また、封建制に代えて郡県制を敷くことで、新たな統一国家の基盤を築いていきました。

しかし、その統一国家を永続させるためには時間が必要だと考えていたのでしょう。始皇帝は不老不死を求めたと伝えられています。そして、ある男に不老不死の妙薬を手に入れるよう命じたのだといいます。

西安の城壁

その命令を受けた徐福(じょふく)は、長江以南の文化的背景を持ちながら、秦の宮廷で仙薬や方術を研究していた人物と考えられています。

そして東の海のかなたには仙人の住む「仙境(せんきょう)」があり、そこには「不老不死の妙薬あり」と説き、始皇帝の願いをかなえる東方渡海の計画を献じたのでした。

徐福は一度、偵察のための航海に出て帰還した後、中規模の船団を編成したと伝えられています。百工(ひゃっこう)や兵士を選び、食や水、家畜、農具、種苗などを積み込み、さらに童男童女数千人を率いて東に向かったといいます。

始皇帝陵墓

それは仙薬探索の名目であっても、徐福にとっては秦の苛烈な圧政から逃れるための大規模な移民ではないかと私は考えています。

いうなれば、新しい土地に乗り出す「東アジア版のノアの箱舟(はこぶね)」のような歴史的な出来事でした。

徐福がたどり着いた土地は、日本列島だったとも考えられています。そして徐福たちは、その後、大陸へ戻ることはありませんでした。

日本には、いつ伝わったのか明確な記録がないにもかかわらず、長江以南の大陸文化に由来すると考えられる農耕技術や植物、作物が数多く存在しています。

ミョウガもまた、長江以南の文化圏に固有の植物です。その伝来は確かな証拠はありませんが、私は徐福たちが薬草や食用植物として携えてきた可能性が高いのではないかと考えています。

次回は、シキミ属のお話です。お楽しみに。

小杉 波留夫

小杉 波留夫

こすぎ はるお

サカタのタネ花統括部において、「虹色スミレ」「よく咲くスミレ」「サンパチェンス」などの市場開発を行い、変化する消費者ニーズに適合した花のビジネスを積極的に取り組む。定年退職後は、学校の先生に対する園芸指導や講演活動をしながら、日本家庭園芸普及協会の専門技術員として、自ら開発した「たねダンゴ」の普及活動などを行っている。
生来の「花好き」「植物好き」である著者は、東アジアに生息する植物の研究を楽しみに、植物の魅力を発信中。

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