堀切菖蒲園で見た江戸時代のハナショウブの多様性と、その背後にある歴史の厚みに驚いた私は、野生のノハナショウブを観察するところから園芸種としてのハナショウブを考え見つめ直すことになりました。
花の形や色の違いを見比べながら、なぜそのような変異が生まれるのかを考えていくうちに、思いは植物の中に秘められた「遺伝子の設計図」や「ゲノムの構造」にまで及びました。少し専門的な話にも触れましたが、その過程を通じてハナショウブという植物の姿が以前よりも立体的に見えるようになった気がします。
今回は、ハナショウブの話を締めくくる前に、アヤメ属の起源や日本への波及、そして日本に自生するアヤメ属植物について簡単に整理しておきます。

ワトソニア ボルボニカWatsonia borbonicaアヤメ科ワトソニア属
東アジアから遠く離れた南アフリカには、私たちにもなじみ深いグラジオラス、フリージア、ワトソニア、トリトニア、イキシアなど多くのアヤメ科植物が自生しています。
その数は1200〜1500種ともいわれ、アヤメ科植物の半数以上がこの地域に集中しています。南アフリカはアヤメ科植物が多様化が特に進んだ地域であり、その起源地の一つではないかと考えられています。

ドイツアヤメIris germanica(イリス ゲルマニカ)アヤメ科アヤメ属
南アフリカから北進した系統の一部は、地中海沿岸の乾燥地帯で分化し、現在のアヤメ属の姿を形づくったと考えられています。
その後、アヤメ属は地中海沿岸からコーカサス、さらに中央アジアへと広がり、現在では200種を超える大きな種群(しゅぐん)へと発展しました。

ヒメシャガIris gracilipes(イリス グラシリペス)アヤメ科アヤメ属
アヤメ属の多くは、種子が地面に落ちることで広がる「重力散布」という素朴な方法で繁殖しています。
仮に1年間にわずか1~2mしか分布を広げられなかったとしても、400万年という時間をかければ約8000kmの距離を移動できることになります。気の遠くなるような歳月を経て、アヤメ属の一部はユーラシア大陸を東へ広がり、その果てに位置する日本列島へと到達しました。
日本に自生するアヤメ属植物は、ノハナショウブ、アヤメ、カキツバタ、ヒオウギアヤメ、エヒメアヤメ、タレユエソウ、ヒメシャガの7種類です。
このうち、日本固有種はヒメシャガだけです。ただし、ヒメシャガは日本で新たに生まれた種(しゅ)というよりも、かつて大陸では絶滅した種が日本にのみ生き残った可能性があると考えられます。

ヒオウギアヤメ
上の写真は、ヒオウギアヤメIris setosa(イリス セトサ)アヤメ科アヤメ属です。ヒオウギアヤメは、英語で「Arctic Iris(北極アヤメ)」と呼ばれています。日本では本州の亜高山帯が分布の南限で、そこから北海道、シベリア、アラスカ、カナダへと広がっています。
その分布域は北極圏を取り巻くように連なっており、まさに「北極のアヤメ」の名にふさわしい植物なのです。

日本に自生するアヤメ属植物のうち、湿地に生えるのは、このヒオウギアヤメとカキツバタだけです。
アヤメIris sanguinea(イリス サングイネア)アヤメ科アヤメ属。種形容語のsanguineaとは、sanguis(血)とeus(~のような)の意味を持つラテン語で構成される「sanguineus」の女性形です。古典植物学では赤紫色をそのように表現することが多いです。
アヤメは日本固有の植物ではなく、朝鮮半島、中国東北部、シベリア沿海州に広く分布しています。これらの地域が本種の分布の中心と考えられています。

大陸に生育するアヤメ
上の写真は大陸に生育するアヤメです。日本に自生するアヤメと同じ種でありながら、花色はより濃く、花も大きく、草丈も高く見えます。その姿は、まるで別種のように見えます。

長野県の根子岳、標高1500m付近に自生するアヤメ
上の写真は、長野県の根子岳、標高1500m付近に自生するアヤメです。このアヤメにIris sanguinea(イリス サングイネア)という学名が付けられていても、どこか違和感があります。

アヤメは大陸起源の種と考えられており、日本でも北海道から九州までの山地に自生し、やや乾燥した、日当たりのよい草地に生育しています。私は以前から、アヤメがIris sanguineaと呼ばれても、その名が示す「血のような赤紫色」ほど花色が濃くなく、むしろ薄く感じてきました。
皆さんもよくご存じの植物学者、牧野富太郎氏も同じような違和感を抱いていたのだと思います。

上の写真の大陸産のアヤメに対して、牧野富太郎博士はIris sanguinea var. violacea(イリス サングイネア変種ビオラセア)という学名を付けたのです。変種名のViolaceaは、ラテン語で「紫色」を意味します。
当時は植物進化学の考え方が十分に成熟していない時代でした。日本では、より本源的な大陸のアヤメが「変種」で、派生的分布の日本アヤメが「本種」の扱いになっています。
この大陸産のアヤメには「カマヤマショウブ」という通称名が付けられています。しかし現在の国際的な植物分類学では、大陸産のアヤメも日本産のアヤメも同じ種とされ、いずれもIris sanguineaに統一されています。

それでも、大陸産のアヤメ(カマヤマショウブ)は、
・草丈が70〜100cmと大型であること
・株がしっかりしていること
・花被片が広く見栄えがよいこと
・花色が濃く美しいこと
などの特徴から、園芸的な評価が高い植物とされています。
大陸と日本では生育環境が大きく異なります。そのため、同じアヤメでもそれぞれの環境に合わせて姿や形に違いが生まれたのでしょう。

ハナショウブの華やかな園芸世界の背後には、南アフリカから地中海、そして東アジアへと続く、アヤメ属植物たちの長い旅路がありました。
旅の途中では、姿を消した種も少なくなかったでしょう。それでもアヤメ属の仲間たちは、それぞれの土地の環境に適応しながら姿形を変え、東アジアの地へとたどりついたのです。ノハナショウブが持つ豊かな変異の背景にも、そうした気が遠くなるような進化の歴史が関わっているのだと思います。
江戸の園芸家たちが愛したハナショウブには、こうした野生のアヤメ属植物たちの長い歴史が息づいているのでした。
次回からは、ミョウガのお話を始めます。お楽しみに。