『東アジア植物記』を執筆するためにはカメラとパソコン、そして私自身が必要です。
ところが今回、長年愛用していたパソコンの電源が入らなくなり、途方に暮れています。書きかけだった「東アジア的アオイ科フヨウの仲間」の原稿や撮影データは外部記憶装置に保存していなかったため、連載は途中で途切れ、そのまま書き続けられなくなってしまいました。未完となり非常に残念です。
長年かけて集めた写真を再び収集するには、新たなフィールドワークと時間が必要です。しかし、気を取り直して、借りたパソコンで『東アジア植物記』を書き続けます。
さて、2024年以降、私は約2年半にわたって年4回ほど能登の被災地へ通い、仮設住宅の皆さまと共に「たねダンゴ」による花と緑を取り戻すお手伝いをしてきました。

2026年、震災から2年目の夏が過ぎた能登です。
道路の復旧は進み、凸凹の道も平らになりましたが、まだ傾いたままの電信柱や崖崩れの跡が生々しく残るところもありました。
そして今は、壊れた家の公費解体が進み、人家の跡地や空き地が目に付くようになりました。
そんな能登半島に暮らし続ける方々のために、花や緑で少しでもお役に立てることがあるのではないか。そう考えながら、「たねダンゴ」の旅を続けています。

写真は、「たねダンゴ ミックス」の種子入り絵袋です。「たねダンゴ ミックス」には春まき用と秋まき用がありますが、今回の活動では春まきタイプを使用しました。
仮設住宅周辺の空いた土地を利用し、住民の皆さんと一緒に春まきの「たねダンゴ」を作って植え込みました。

この約2年半、能登各地に出向きましたが、地域の中で花屋さんを見かけませんでした。あったとしても、供える花を手に入れるのすら難しい、という話を耳にします。
日常に飾る花や仏前へ供える花々は、かつては庭に種をまき、自らの手で育てて利用していたのでしょう。そうした花と緑に囲まれた暮らしが失われた方々にとって、共同で利用できる花壇は必要なものではないかと思います。
6月にまいた「たねダンゴ」は、住民の皆さまによる手入れのかいもあって、見事に花を咲かせました。

一方で、共同で利用できる空き地がない仮設住宅も多くあります。そんな時は、プランターに「たねダンゴ」を植え付けて育てます。
夏の間は毎日の水やり、そして肥料が欠かせません。仮設住宅の人たちによって大事に手入れされ、「たねダンゴ」は見事に花を咲かせました。「たねダンゴ」から咲いた花々を見ていると、孝行息子のように思えてなりません。

金沢から能登半島の先端までは遠く、前泊して朝早くから車で各地を巡ります。そこで能登へ向かう前日、加賀の浜辺へ足を延ばし、海浜植物の調査に出掛けました。

金沢から能登半島とは反対方向へ車で1時間ほど走ると、加賀市塩屋海岸に着きます。加賀の海岸には、白山などの山々から大量の土砂が海へ供給されています。そして、日本海を流れる沿岸流によって運ばれた砂が浜に打ち寄せられ、豊かな砂浜や砂丘が広がっています。

コウボウムギ
季節は春、4月中旬。海岸線付近には、コウボウムギ(弘法麦)Carex kobomugiカヤツリグサ科スゲ属の大きな群落があります。
属名のCarexは、ギリシア語のケイロ(keiro、切る)に由来し、葉が固く鋭い特徴から「手を切るほど」という意味です。種形容語のkobomugiは、筆の達人としても知られる空海が浜辺に投げ捨てた筆が芽吹いて草になったという俗話に由来します。
しかし私は、この植物には「砂丘草(dune grass)」の名が最もふさわしく、その生態を表していると思っています。

それにしても、なんともおかしく愛嬌(あいきょう)のある姿をしているコウボウムギです。歯ブラシにでも使えそうな花穂で、一つ一つに目玉を付ければ妙なマスコットにもなりそうです。

植物を生態系の中でじっくりと観察すること。目で見て、触れて、感じる。それこそがフィールドの醍醐味(だいごみ)であり、私にとって最も自由と幸せを感じるひとときです。
同じ海岸線の最前列ともいえる、波打ち際に近い砂地へ目を向けると、ハマボウフウの若々しい葉が茂り始めていました。

ハマボウフウ
ハマボウフウGlehnia littoralis(ゲレーニア リットラリス)セリ科ハマボウフウ属。中国やシベリアにボウフウ(防風)と呼ばれる薬草があり、それに似て浜辺に生育することからハマボウフウ(浜防風)と呼ばれています。
海浜植物といっても、磯や干潟には見られず、砂浜や砂丘に限って生育しています。ハマボウフウが生えるということは、健全な砂浜や砂丘環境が残されている証拠でもあります。
「防風」とは、風邪を防ぐ薬草という意味に由来するのでしょう。属名のGlehniaは、バルト・ドイツ人の植物学者ペテル・フォン・グレーン(Peter von Glehn、1835~1876)への献名です。また、種形容語のlittoralisは、ラテン語で「海岸に生育する」「海岸性の」を意味しています。

ハマボウフウは、日本全国の海岸線をはじめ、中国沿岸部やロシア極東の海浜にも広く原生しています。砂丘の前衛に太い根を深く伸ばし踏みとどまることで、強風や乾燥などから身を守っています。そして、つやのある分厚い葉で塩しぶきにも耐えます。
以前、ハマボウフウの若葉を天ぷらで食べたことがありますが、なかなかおいしいものでした。
しかし、過剰な採集や海浜環境の開発などによってハマボウフウは全国で数を減らしているといいます。その味を知り、実際に食べたことのある私としては、まったく無関係ともいえず、少し胸が痛みます。

ハマボウフウからさらに一段上の砂丘に陣取るのが、カワラヨモギArtemisia capillaris(アルテミシア カピラリス)キク科ヨモギ属です。
属名のArtemisiaは、ギリシャ神話の月の女神、婦人病治癒の守護神でもあるアルテミスに由来します。種形容語のcapillarisは「細毛状の」を意味します。
若い葉には灰色の毛が密生し、モフモフとした銀緑色をしています。しかし、成長すると低木状となり、緑色をした細かな葉を付けます。

カワラヨモギは砂浜や砂丘に固有の植物ではなく、乾燥地や塩分の多い土地、河原などほかの植物が嫌う荒地に生育する植物です。モンゴルのゴビ砂漠周辺や中央アジアをはじめ、アジア各地に広く分布しています。日本全土にも生育しますが、荒野の少ない国土であるため、砂浜や河原で見ることが多いようです。
私がこの加賀の海岸を訪れたのは、ある植物の日本における最大級の生育地だからです。その植物の話は次回までとっておくことにしましょう。
次回は、『加賀の海浜植物とイソスミレ[その2]』です。お楽しみに。