東アジア植物記 江戸時代と花菖蒲[その5]

江戸時代、武士の石高は階級ごとに固定されたままでしたが、貨幣経済の発達と共に物価は上昇し続けました。伊勢(松阪)商人をはじめとする町人たちが豊かになる一方で、武士や幕府の権威が相対的に低下していきます。このことは、『江戸時代と花菖蒲[その4]』の伊勢花菖蒲の項で触れた通りです。

こうした経済の発達は、江戸時代の封建的社会を根本からゆるがしていきました。園芸文化の担い手であった武士の影響力が低下し、江戸花菖蒲も武家社会の枠を超え、次第に庶民の間で楽しまれるようになっていきます。

原種ノハナショウブ

私は、東京のデルタ地帯にあたる東京都葛飾区の堀切近辺で育ちました。葛飾一帯が江戸時代には隅田川下流の広大な湿地帯であったことは、単なる歴史ではなく、土地の記憶として実感を伴うものです。

江戸後期になると、堀切はハナショウブの名所として知られるようになり、歌川広重(うたがわ ひろしげ)をはじめとする浮世絵師たちはその景観を描き、町民が訪れる観光地としてにぎわいました。その人気は明治・大正を経て昭和初期に至るまで続きます。

伝承によれば、堀切のハナショウブの始まりは、室町時代から戦国時代にかけて陸奥国から移り住んだ「伊左衛門(いざえもん)」という農家にさかのぼります。伊左衛門が、自生していたノハナショウブを植えたことが、その起源として伝えられています。

菖翁花とも江戸古花ともいわれていれるハナショウブ「竜田川(たつたがわ)」

江戸時代の何代目かの「伊左衛門」は、小高姓を名乗っていました。名字を持ち、「止吉」や「五作」といった一般的な百姓名とは異なる武士風の名を用いていることから、地侍あるいは名主格の有力農民であったと推察されます。

彼は、武家の間で門外不出として守られてきた花菖蒲文化を庶民へと開き、花菖蒲園「小高園」を開設して、葛飾・堀切を江戸有数の名所へと育てた人物として知られています。

菖翁花とされる「和田津海(わだつみ)」

私もこれまでさまざまなハナショウブを見てきましたが、松平定朝(まつだいら さだとも)=「菖翁(しょうおう)」が作り出した品種群は、大輪で平咲きの花、鮮やかな花色、その小粋な立ち姿など、その見事な完成度の高さが際立っています。

菖翁は系統的な実生(みしょう)交配を行い、ハナショウブ育種の水準を飛躍させた天才的なブリーダーであったと私は思います。

菖翁花の「王照君(おうしょうくん)」

厳格な武家の秘蔵品としてハナショウブを管理していた菖翁と、堀切の小高伊左衛門には、不思議な縁がありました。小高家には、代々語り継がれた伝承があります。

菖翁は、自邸で馬を飼っていました。その当時、堀切をはじめとするデルタ地帯には、アシ(葦)やススキなど、馬の飼料となる草が豊富に茂っていました。そこで伊左衛門は、その草を刈り集め、10年もの長きにわたって菖翁に届け続けたというのです。

「葛飾区郷土と天文の博物館」で開催中の特別展「葛飾区大花菖蒲展」のチケット

時代考証によれば、当時の菖翁はすでに隠居の身で老境(ろうきょう)にあり、一方の小高伊左衛門は働き盛りで、ハナショウブに強い関心を持つ若者でした。10年ものあいだ通い続けた二人の間に、ハナショウブをめぐる会話が交わされなかったとは考えにくいものがあります。

厳格で、かたくなな菖翁でしたが、誠実に奉仕を続けた伊左衛門に心を動かされたのでしょう。 やがて菖翁は、自ら作り出した品種を伊左衛門に託しました。伊左衛門はそれらの菖翁花を受け継ぎ、増殖と保存に努め、のちの江戸系ハナショウブの基礎を築きました。

そうして小高伊左衛門は、葛飾・堀切で開いた「小高園」をハナショウブの名所としての地位に確立させたのです。菖翁が亡くなった後、ハナショウブ文化の中心は「小高園」周辺へと移っていきました。そこでは、無名の農家や町人の園芸家たちが品種改良を続け、堀切は江戸時代にハナショウブの楽園となりました。

ハナショウブの中でも江戸古花にあたる品種たち

ハナショウブには、「江戸古花(えどこばな)」と呼ばれる絢爛(けんらん)豪華な品種群があります。定義上は江戸時代から戦前までに育種された品種群を指しますが、実質的には、菖翁花を基礎として作り出されたものです。

菖翁花は、ノハナショウブが持つ豊かな遺伝的多様性を利用して成立した品種群でした。いわば、強いヘテロ性(ヘテロ接合体)を持つ集団から選抜された花々です。江戸古花は、その遺伝的基盤を継承しながら発展した品種群であったと考えられます。

江戸時代に菖翁から小高伊左衛門へと受け継がれた菖翁花は、固定された純系ではなく、変異の宝庫ともいえるヘテロシス(雑種強勢)集団でした。

そこから生じた江戸古花は、江戸時代から戦前にかけて約2世紀にわたり育成され続け、園芸文化の遺産ともいえる存在となっています。

野に咲く紫一色のノハナショウブに、これほど多彩な花色や花姿に生み出す遺伝的可能性が潜んでいたことには、驚かされるばかりです。

江戸後期に生まれた花菖蒲園は、明治・大正・昭和初期にわたり人々を魅了し続けました。小高園を皮切りに、明治以降は武蔵園、吉野園、観花園、堀切園が加わり、葛飾・堀切には五つの花菖蒲園が並び立ち、にぎわいをみせました。

しかし、時代が変わり、葛飾のデルタ地帯では宅地化と工業化が進み、娯楽も多様化していきました。堀切にいくつもあった菖蒲園は、急速な都市化と戦争の影響に押しつぶされ、次々と廃園となりました。

それでも江戸から受け継がれてきた文化遺産を守り抜いた人々のおかげで、わずかながらも江戸のハナショウブは受け継がれていきました。

戦後、東京都は堀切の土地を買収し、職人たちは各地の残存株を集めて江戸古花の再生に取り組みました。そして、現在の堀切菖蒲園(都立公園)が再建しました。

その過程は、歴史をたどるドキュメント番組で取り上げてほしいほどの、幾多の困難を乗り越えるドラマの連続だったと思います。江戸時代に百花繚乱(りょうらん)を極めたハナショウブの多くは失われてしまいましたが、よくぞここまで保存し、再建されたものだと、関わった人々に深い感謝をささげたい気持ちになります。

江戸時代の人々がハナショウブを眺めた堀切の地に立ち、私も同じ花を見つめていると、菖翁や伊左衛門、細川家の殿様、商人や町民、そして戦後にその保存と再建に尽力した東京都の職人たち――そうした人々の思いが、日本のハナショウブの中に静かに息づいているように思えてなりません。

野の花は、野にあるだけで美しいものです。しかし、その美しさを見いだし、育て、守り続けてきた人々の思いもまた、今咲く花々の中に確かに宿っています。そのことを堀切菖蒲園は、示しているのでした。

次回は、『江戸時代と花菖蒲[その6]』です。お楽しみに。

小杉 波留夫

小杉 波留夫

こすぎ はるお

サカタのタネ花統括部において、「虹色スミレ」「よく咲くスミレ」「サンパチェンス」などの市場開発を行い、変化する消費者ニーズに適合した花のビジネスを積極的に取り組む。定年退職後は、学校の先生に対する園芸指導や講演活動をしながら、日本家庭園芸普及協会の専門技術員として、自ら開発した「たねダンゴ」の普及活動などを行っている。
生来の「花好き」「植物好き」である著者は、東アジアに生息する植物の研究を楽しみに、植物の魅力を発信中。

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