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ソバカスのお皿百合[後編] ノモカリス

小杉 波留夫

こすぎ はるお

サカタのタネ花統括部において、虹色スミレ、よく咲くスミレ、サンパチェンスなどの市場開発を行い、変化する消費者ニーズに適合した花のビジネスを展開。2015年1月の定年退職後もアドバイザーとして勤務しながら、花とガーデニングの普及に努めている。
趣味は自宅でのガーデニングで、自ら交配したクリスマスローズやフォーチュンベゴニアなどを見学しに、シーズン中は多くの方がその庭へ足を運ぶほど。

ソバカスのお皿百合[後編] ノモカリス

2016/08/30

清朝の末期、イギリスとのアヘン戦争に敗れた中国は、他国に侵略されました。開港し、宣教師を受け入れたのです。この人たちの仕事は、キリスト教の布教だけではありませんでした。ちょう報と後からやってくる人たちの橋渡しを行い、中国の事情や植物を自国に報告したのでした。やがて、多くのプラントハンターが雲南にやってきて、チャノキなど数多くの植物資源を持ち帰りました。

投資家は、中国の植物が富を生むと考え、プラントハンターを雇いました。ジョージ フォレストGeorge Forrest(1873~1932)もその一人でした。彼はスコットランド生まれ、エジンバラの植物園で働いていました。飛行機のない時代、中国の奥地までの旅は、地の果てまで行くようなものです。まして、その当時は、中国とチベットの紛争時代、この地では、多くの殺りくが起きていました。植物採取の一行も襲撃に遭い、多くの人たちが殺害、拉致される中、フォレストは生き残り、逃避行が始まります。わなの竹やりは足の甲を突き破り、命からがら採取地から逃げなければならなかったのです。

時には、サルウィンにてマラリアに発病し、危篤に陥りながらも、プラントハンティングを続けました。写真に残るフォレストの風貌は、どこかインディージョーンズに似ています。彼は、プリムラ マラコイデスの採取で園芸世界に知られている人ですが、他にヨーロッパに導入した植物はおびただしい数に上ります。種形容語にForrestの名が刻まれる植物は多く、Nomocharis forrestii(ノモカリス フォレスティー)もその一つです。

プラントハンター、フォレストは59歳の波乱に満ちた生涯を、雲南の地であまりにも突然に閉じたと記録されています。

雲南省シャングリラ郊外、標高3400m。Nomocharis forrestii(ノモカリス フォレスティー)ユリ科ノモカリス属は、低木やワラビ類が穏やかな日ざしを避けるような斜面に自生していました。

花は6弁で平開し、お皿の形です。色はローズからシェルピンクで、基部を中心に赤色の斑点を散りばめます。しべの部分は、可視光で見ると暗赤色の濃い斑点です。

花の咲き方はほとんどが横向きですが、下向きの花や写真のような受け咲きの花まであります。どの花にも共通するのがこの赤い斑点です。

ノモカリスの斑点を見ていると夜間の誘導路のようです。花粉を運ぶ飛行性の虫たちは、高速で飛んでいます。それは、ちょうど飛行機のようなものだと思います。彼らを花の生殖器官に着地させるためには、このような誘導斑点が有効なのだと思います。しかも、斑点は、核心部分にむかって密度が上がるよう工夫されています。この場所のノモカリスでは、斑点が強い個体が多く見られました。それはこの意匠が繁殖に有利だということです。

多くの株では赤い斑点が目立ちますが、中には少ない個体もあります。園芸的には、クリアな個体が望まれるのかも知れません。

草丈は50~100cm、花の大きさは6cm程度で、切り花に向くサイズです。ほとんどの花は一つの茎に一つの花を付けていましたが、栄養状態さえよければいくつも花を付けるようです。

100年前はこのノモカリスが生えている場所は、地の果てでした。高山病、住民の襲撃、風土病など、まさにフォレストのような、命がけの旅の果てにノモカリスたちは咲いていたのです。あれから100年。ノモカリスたちはいまだに珍奇な植物として知られ、園芸化がされていないのです。それは、自生環境が特殊なこと、繁殖が難しいこと、そしてウイルス病に弱いからと言われています。

東アジア雲南省シャングリラ(香格里拉)は、外界から隔絶された秘境です。プラントハンターの夢の欠片と、植物好きの憧れを集めてノモカリスたちは、ひっそりと花を咲かせているのでした。

次回は「竜の子どもたち[前編] ガガイモの仲間」を取り上げる予定です。お楽しみに。

JADMA

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